Futokoro

小説、日々の雑記。

ダイナー (小説 2/3)

最初にパーティーに行こうと誘ったのは僕の方だった。古い友人に「DJをやるので来ないか」と声をかけられたからだ。

 

僕としては、彼女になってくれたばかりの彼女と「カップルでパーティーに行く」という浮かれたイベントをしてみたかったのだと、後から考えれば思う。DJが曲をかけているようなパーティーになんて興味もないのに、行くことにしたのだから。

 

クラブよりも、バンドが演奏するライブハウスの方が、まだ身の処し方には困らない。バンドの方を見て、演奏を聴いていればいいのだから。しかしクラブではどうしていいのかわからない。DJの方を見て音楽を聴くというのもどうやら違うらしい。そういう意味でも、誰か相手が欲しかった。一緒に行って、一緒に帰ってこられる相手が。

 

結局叶ったのは前者だけで、僕は一人で帰ってくることになったわけだが。

 

コーヒーのマグを口に運んで傾けてから、もう中身がないことに気づいた。彼女が一口かそこらしか飲まないうちに、僕はもう一杯目を飲み終えてしまった。考え事をしていると飲み物をついつい口に運んでしまう。

 

朝のダイナーは忙しい。せっせと料理を運んでいる接客の女性をいちいち呼び止めるのも気が引ける。もうそろそろ食事が出てくるころだろう。僕はマグをテーブルに置いて、だまって水の入ったコップに手を伸ばした。彼女がちらっとこっちを見た。また「そういうところだ」と言われている気がした。

 

あのパーティーの日も、僕は最初の一杯を早々に飲み尽くしてしまっていた。DJの友人に挨拶したあとは早速手持ち無沙汰になり、こういう場所で彼女という存在とどう過ごしたものかもわからず、なんとなく端っこのテーブルに二人で座って、どうしようかとあれこれ考えているうちにドリンクがなくなっていた。

 

大音量でかかるハウスミュージックの中、僕は彼女に大きな声で「もう一杯買ってくる」と告げた。言葉が届いているのかはわからなかったが、彼女はなんとなくうなずいた。彼女のドリンクはまだ減っていなかったから、余計なことは聞かずに席を立った。カウンターには列ができていて、結局二杯目を手にするのに二十分ほどの時間を要し、戻ってみると彼女はまだそこにいたが、僕が座っていた席には別の男が座っていた。

 

このダイナーでかかる音楽はいつも心地いい。あのパーティーではずっと場違いな感じがしていた。あの場でかかる音楽に、ずっとそう言われている気がしていた。

 

激しい四つ打ちにまくし立てられるのは好きではなくて、でもそれを求める人が集まる場所なのだから、やはり僕の方が去るべきだったんだろう。会話を遮らない程度の音量で、でも小さすぎもしないアメリカンロックが、ここでは流れている。

 

乾いたギターと太い男の声なのに、なぜ爽やかに感じるのだろう。朝っぽい曲かと言われるとそうではないのだが、朝に合わないわけではない。コーヒーと、ダイナーの景色には、間違いなく合う。四つ打ちのハウスミュージックも、パーティーの景色とはしっくり合っていたのだろう。ただ僕が合わなかっただけだ。

 

あの男はパーティーの雰囲気に合致していた。スーツを着ていたにも関わらずだ。ブルーがかったぴったりしたスーツに、頭頂にパーマのかかったツーブロックの短髪。サンバーストのギターのような茶色のグラデーションの革靴。

 

暗い室内だったのにそういうスタイルが僕の頭に残っているのは、彼に対する反感からだろう。丸いテーブルを挟んで彼女のほうに身を乗り出しながら喋るあいつに、彼女は体を引いているかと思いきや、ふつうに座って話を聞いていた。笑いながら。

 

僕は調子のいい男が嫌いだ。演出過剰な男が。それが嫉妬からだということ、自分がそうはできないからだということはわかっている。わかっているのと、その感情を抑えられるのとは、別の話だ。

 

大げさな身振りと手振りで、遠目にもあいつが会話の主導権を握っているのがわかった。彼女に体を近づけたり離したり、顔を近づけたり離したり。

 

その時僕が割って入れば、事態はまだよかったのかもしれない。僕はそうできなかった。できなかったという言っても、単に僕の意気地がなかっただけなのだろうが。あの男を制して、しっかりと自分の元に彼女を囲い、そのまま僕も大げさな身振り手振りで、適当な話を大声でして彼女を笑わせるべきだったのだろう。

 

しかし僕は、彼が去るまで待ってしまった。今度はグラスがすぐに空にならないように気をつけながら。ちびちびと口をつけながら、あの男が彼女の前から一瞬でも去るタイミングを待った。

 

男のグラスが空になり、男は彼女に何を飲むか聞いた。彼女のグラスも残りわずかになっていた。二つのグラスを持って彼女の前から男が離れたタイミングで、僕は彼女に近づき、帰ろう、と言った。

 

「え、まだ」という彼女の話も聞かず、「僕はもう帰るよ」と告げた。そうすれば立ち上がって後をついてくるだろうと思っていた。

しかし彼女はそうはしなかった。「それなら、じゃあね」と小さく僕に告げて、それ以上目を合わせようとはしなかった。

引くに引けなくなって、僕はその場を離れた。二つのドリンクを手に持ったあの男とすれ違いながら。

 

ギィィと椅子が回転する音がした。見るとカウンターから男が一人立ち上がって、僕らの脇を通ってトイレに行った。天パー気味の長髪を雑に後ろにまとめて、ざっくりとしたサイズのパーカーとジーンズに無精髭。ピッタリしたスーツの男は、こういうダイナーには来ない。ケチャップとマスタードがまるで似合わないあいつのような男は。

 

素焼きのカップでコーヒーを出すような、トーストにアボカドを乗せてくるような、ああいう男はそういうカフェに行く。パンケーキを頼んだ彼女は、そっちの方が好きなのかも知れないが。

 

こういうことをうじうじと考えて深みにはまってくると、何かに逃げたくなる。考えからも、目の前にいる彼女からも逃げたくなってくる。食べるという行為は救いだ。少なくとも食べている間は、考えることを脇に置いておける。自分の中の動物の部分に、自分を預けることができる。その度合いはコンディションによって変わるけれど。

 

この気持ちを汲んでくれたかのように、キッチンの方を向いていた店員女性がこちらを振り向いた。左手の皿には湯気の立つ卵とソーセージが、右手の皿にはしっかりと焦げ目のついた厚切りのトーストが乗っている。

 

この瞬間はライブが始まる直前のようなものだ。僕が思うに音楽のライブというのは、始まる瞬間が最も高揚する。開始の時を待って待って、もうすぐ来るぞ来るぞ……これから確実に事が起こる、その場所に自分がきているのだという確認と安心とアンビリーバブル……そしてアーティストが舞台袖から現れる! 手を振って楽器を持ち……始まる……始まる……始まる!! ……そんな爆発力が、あの卵とソーセージにも宿っている。

 

女性が僕たちのテーブルにそれを運んできた時、彼女の顔も少し柔らかくなった。僕の前に置かれた皿達は、僕の視点からは完璧なレイアウトだった。湯気を放つ卵と、油が光沢をつくるソーセージ、そしてちょうどいい具合に焦げたトースト。

 

その視界に空のマグも入って、あ、と店員女性にコーヒーを頼もうとしたが、彼女は皿を置くなり踵を返してカウンターへ戻ってしまった。

 

一瞬冷めさせられた僕の心は、次の瞬間すぐにまた上方修正された。彼女は例のケチャップとマスタードの容器を1セット持って引き返して来た。僕にスマイルをサービスしながら、ケチャップとマスタードをテーブルに置くと、空のマグを手にする僕に「皆まで言うな」という貫禄でうなずいて、再びターンしてコーヒーのカラフェを取ってきた。

 

これだけの出来事で僕の気分はぐっと底上げされた。いくら重い悩みのように思っても、結局我ながら単純なものだなと思わされる。マグにコーヒーが満たされていくと同時に僕の心も満たされていく。目の前にあるのは、非の打ち所のない、完璧な朝食だ。

 

そして、目の前にいる人も、完璧な彼女のはずだ。彼女は僕にとって最も魅力的な女性だ。この完璧な朝食と同じ視界に彼女が入ることは、この上ない幸せのはずなのに、彼女から目を逸らしたくなってしまうなんて、今の状況はなんてもったいないんだろう。

 

(続)