Futokoro

小説、日々の雑記。

ダイナー (小説 3/3)

彼女のパンケーキはまだ来ない。僕は顔を上げ、彼女の顔を見た。僕の前の、絶妙に焦げ目のついたソーセージを見ていた彼女は、僕の視線に気づいた。

彼女はちょっと呆れたように笑って「どうぞ。先に食べなよ」と言った。僕が口をつける許可を求めたと思ったようだ。それには応えず、僕は彼女の目を見続けた。彼女は違う空気に気づいた。

「なに?」
「僕は今、幸せだと思ってる」
「急にどしたのよ」
「君と、この店と、この朝食」
「……食べれば、はやく」
「これって最高の幸せだと思ったんだ」
「……うん」
「だから、今日で終わりなんてことには……したくない」

ソーセージの香ばしい匂いがしている。この香りに苦い思い出が加わらないといいのだけれど。

彼女は何も言わない。彼女のパンケーキが運ばれて来た。バターとシロップの香りが、ソーセージの匂いを上書きした。

三枚重ねのパンケーキを前にして、彼女は大げさなリアクションはとらず、ただ手を伸ばしてメイプルシロップの瓶をとった。

そのままドバドバと、パンケーキが浸るくらいにシロップを注ぐ、と思ったが、意外にもチョロチョロと細い線で二度ほど円を描いただけで瓶をおいた。

そしてテーブルに沿え付けてあった皿に、一枚目のパンケーキを移し、僕に渡した。

彼女の意外な行動に面食らっている僕に、彼女は「おいしいよ」と言って、再びメイプルシロップを取って、自分の皿にめいっぱい注いだ。

そして手を合わせて、僕の方をみた。僕も手を合わせて、一緒に言った。

「いただきます」

何度も来ているダイナーだけど、パンケーキは初めて食べる。思ったよりふわふわでも甘くもなくて、意外と硬派な味がした。

「おいしいでしょ?」

彼女は笑って言った。僕はただうなずいて、コーヒーを口に運んだ。酸味よりも少しだけ苦味が勝った味が、硬派なパンケーキとよく合った。

彼女はゆっくりとしたペースでパンケーキを食べ続ける。その間にシロップがパンケーキにどんどん染みていく。彼女は満足そうに、色の変わったパンケーキを口に運ぶ。

僕も自分の卵とソーセージを彼女に取り分けようとした。しかし彼女は「私はいらない」といった。小さな拒絶が、僕の心に少し引っかかった。

彼女の差し出したパンケーキに意表を突かれてから、二人の皿が平らになるまでの間、僕はさっきまでの重苦しさを忘れることができた。彼女も心なしか表情がやわらかくなった気がするが、それは純粋においしい食事のおかげだろうか。

さっきの小さな拒絶がまだ胸に引っかかっていた。彼女が時計を見て言った。

「そろそろ行かなきゃ」

その前にトイレ、と言って彼女が立ち上がり、僕も立ち上がってレジへと向かった。最後になるかもしれない食事はあっけなく終わりを迎えた。彼女が僕の彼女であるのも、残り数分かもしれない。

支払いを済ませて店のドアの外で待っていると、僕の食べたメニューと同じ皿をもった店員女性とすれ違いながら、彼女が出てきた。

「卵、おいしそうだったね」

彼女はそう言って、僕の目を見た。

「興味なかったんじゃないの?」
「そんなことないよ」
「いらないって言ってたから」

少し拗ねたような言い方が見苦しいことには自分で気づいていたが、やはり自分でそれを制御できるほど、大人にはなれていなかった。また沈黙が訪れて、そのままこの関係は終わり。

それを一瞬で想像したが、彼女は沈黙はしなかった。

「だって一口もらっちゃったら、パンケーキの余韻がなくなっちゃうから」

彼女は歩き出した。やはり僕は最後まで、彼女のリズムに合わなかったのだろう。

悪い結果をなんとか受け止めようと僕の脳がいろいろな言い訳を考え出した時、彼女が言った。

「今度は、一口ちょうだいね」

意表を突かれて、僕は立ち止まった。今の言葉……また一緒にここに来れるのかもしれない。少なくとも、もう一度は。

振り返らずに歩いていく彼女を、僕は走って追いかけた、

(終)