Futokoro

小説、日々の雑記。

課金の町 (変境日誌/ショートショート小説)

或る町に着いた。

駅の改札を通る際、手持ちのスマートフォンにアプリケーションをインストールさせられた。アプリに表示されるコードを改札機に読ませ、ゲートを出た。

この町での決済は、このアプリを使って行われるらしい。駅に並んだドリンクの自動販売機にも、改札機と同じ読み取り機がついていて、このアプリを読ませて後々決済するシステムのようだ。

訪問先の友人からは住所をもらっていたが、それなりに距離があるので、駅を出たらタクシーを拾った方がいいと言われていた。

普段なら長く歩くのは特に苦ではないのだが、先日ふとした拍子にひねってしまった足をまだ少しひきずっているので、素直にタクシーに乗ることにした。

タクシー乗り場に待機客は誰もおらず、二台のタクシーが停まっていた。先頭のタクシーに近づけば自動でドアを開いて迎えてくれると思っていたが、ドアの前に立っても運転手は開けてくれなかった。

運転席を覗き込むと、三十代くらいの若い男の運転手がこっちを向いていた。片手に持ったスマートフォンを指差して、かざすようなジェスチャーをしている。画面に開いているのは、駅でインストールしたあのアプリのコードだった。

目の前のドアを見ると、グリップの部分に、改札機や自販機と同じ読み取り機がついていた。アプリを開いてコードを当てると、ライトが青く光り、ガチャっとロックが外れてドアが開いた。

まだ慣れないが、なるほど、全てがこのコードで決済できるなら便利そうだ。そう思いながら車内に潜り込み、シートに腰を落ち着けると、運転手が言った。

「どこへ?」

あまりに簡素な言葉に僕はひるみそうになったが、ひとまず行き先を告げねばと思い、友人からもらったメールを見ながら言った。

「金杉町の二丁目に行きたいんですが……」

タクシーの運転手にいきなり細かい住所を告げるのは少しためらわれる。まずは大雑把な場所を告げたのだが、運転手は、

「道は?」

と聞いてきた。
タクシーの運転手にはいろんな種類の人間がいる。あまりコミュニケーションをとりたくないタイプなのだろう。

「道はわからないんで、おまかせします」

そう告げると彼は、運転席横の画面を指差し、

「入れる?」

と聞いてきた。「ナビ入れますか?」くらい言えばいいのに、と思いつつ、僕は「お願いします」と告げて、住所を伝えようとスマートフォンのメモ画面を見せたのだが、運転手はナビの横にかけてあったバーコードリーダーを手にとって、

「コード」

と僕に告げた。なるほど、ナビを使うのも課金制なのか。嫌らしい体系だが、まあ仕方ない。郷に入っては郷に従え。大した額ではないだろう。

再びスマートフォンでアプリを開き、運転手がコードをスキャンした。するとナビが「Connecting……」というような表示に変わった。だがしばらく待ってもその先に進まない。

やがてビーッと警告音が出て、「Error」というような表示に変わった。

運転手は首を捻り、僕に「もう一回」というジェスチャーをして見せたところで、ハンドル横のホルダーにつけてある彼のスマートフォンにメッセージが入った。

運転手はそれを読むなり僕の方に向き直り、

「お客様、大変申し訳ございません。現在弊社の決済システムにエラーが起こっているとの情報が入りまして、お客様の決済を通せない事態となってしまいました。大変恐縮ではございますが、一時的に運行を停止する必要がございまして、一旦お降りいただいて、後ろのタクシーのご利用をお願いできますでしょうか。

弊社の全タクシーに影響が出ているのですが、幸い、後ろの一台は別の会社の車ですので、問題なくご乗車いただけるかと存じます。ご迷惑をおかけしてしまい大変申し訳ございません」

と、とても流暢に話した。
さっきまでとのギャップに面食らいながらも、僕は「わかりました」とだけ応え、「大変お手数ですが、乗車記録の消去のためにもう一度アプリのコードのご提示をお願いできますでしょうか」と伝えられたので、画面を見せてスキャンをしてもらい、車を降りた。

背後からもう一度「大変申し訳ございませんでした」と謝られ、僕は軽い会釈をしながら、何か釈然としない気持ちで後ろの一台に移った。

後ろの一台は、僕が前の車から降りてきたのを不思議に思うかなと思いきや、どうやらもう前の車のシステム不具合については情報を得ていたようで、僕がコードをかざして後部座席に乗り込むや否や、

「いやいやお客さん、災難でしたね」

と調子のいい感じで運転手が話しかけてきた。

「うちのナビは生きてますんでね、安心してください。というか私ならナビ無しでも行けると思いますけどね。住所、どちらですか?」

五十歳くらいの男だったが、慣れた感じでリードしてくる。あまりおしゃべりなのも好きではないのだが、初めての土地で乗るタクシーは、こういうお調子者っぽい人の方が助かる。

さっきの運転手のようにつっけんどんなやりとりでは、本当にこちらの要望がわかってくれているのか不安になる。まあナビさえ動けば問題なかったのかもしれないが。

僕が住所を伝えると、運転手は、

「ああはいはい、金杉の一丁目ね。じゃあこの大通りをまっすぐいって、千蛇通りの手前で右に入って、小道を二、三回曲がって紅白稲荷のところに出ればすぐですよ。そんな感じでよろしいですかね?」

僕は「おまかせします」とだけ伝えた。途中でこの辺りの観光名物である神社と団子屋に寄ることを勧めてきたが、「前のタクシーで出発できなかった分、時間がない」というような言い訳をして断った。

車が走り出してからも、彼はその神社にまつわる江戸時代の男女の悲恋話や名物の団子の紹介(みたらし団子でありながら中にあんこが入った逸品)、はたまた地元のサッカークラブの戦績や、自身の参加する草野球チームのメンバー紹介に至るまで、ひっきりなしにしゃべり続けた。

最初のタクシー運転手に会っていなければ辟易しているところだったが、まあ無愛想なよりいいかと思い、僕は彼がしゃべりたいままにしゃべらせておいた。

そして友人宅の前に着いた。運転手は僕が降りる前に、
「いやはやお客さん、この度はうちのタクシーを利用していただいて本当にどうもありがとうございました。おかえりの際もタクシーですか? もしよかったらまた呼んでくださいね。私すぐにかけつけますんで」といいながら名刺を渡してきた。

彼からの案内に従って、僕は再びアプリを開き、ドアノブ脇の読み取り機にコードを当てた。ピロンと決済音がなり、ドアが開いた。運転手は「ありがとうございました〜」と言いながら、運転席のボタンでドアを閉めた。

友人は暖かく僕を迎えてくれた。数年ぶりの再会でつもる話などしていると、彼の奥さんがお茶菓子に例の団子を持ってきてくれた。

「このあたりの名物なんですが、お口にあうかどうか」と言う彼女に、さっきタクシーで運転手にひとしきり説明してもらったと話した。すると友人は怪訝な顔をして、

「タクシーの運転手がそんなにベラベラ話したのかい?」

と聞いてくるので、僕は「ああ」と応え、一台目のタクシーに乗れなかった顛末と、無愛想な運転手について彼に話した。

「そりゃあまずい運転手に当たっちまったね」

と彼が言うので、僕は応えた。

「そうだろう。一応客商売なんだから、もっと愛想よくしてくれればいいのにね」
「いや、まずいのは君が乗ってきた方の運転手だよ」
「え? どういうことだい? そっちの方は愛想よく対応してくれたよ。ちとしゃべり過ぎな感はあったけどね」
「それが問題なのさ。君、そのタクシーの利用料金確かめてないだろ」

確かにそうだが、タクシー代なんてたかが知れてるだろう。そう思いながら決済アプリを開き、履歴のところを確認した僕は、その値段に目を丸くした。想定の十倍はかかっている。

「この町のタクシーはこんなに高かったのかい?」
「いや、タクシー代自体はそんなに高いものじゃないんだよ。運賃はね。それとは別に、案内料、ってのがあるだろう?」

アプリの明細を見ると確かに案内料というのがあって、運賃の数倍の値段が取られている。

「この辺のタクシーは、運転手の案内にも金を取るシステムでね。神社のこととか、説明されただろう? そういうのにも課金をしてくるんだよ。何を計算してるかって、運転手のしゃべった文字数なんだ。それを車内のマイクが全部拾って、コンピュータが自動的に文字数を割り出して金額に乗っけてるのさ」

なるほど、それであの運転手は饒舌にしゃべり続けたのか。システムを知らない僕はいいカモだったというわけだ。草野球チームの情報にまで金を払わされてたとは。

「最近はそういう悪どいことしても、みんなわかっちゃってるから、むしろしゃべらないことをサービスにしてるタクシーが多いんだけどね」

つまり最初に当たった言葉少なな運転手の方が、サービス精神のある顧客思いの運転手だったというわけだ。

どうりで、あんな片言みたいな受け答えをしていたのに、決済できないとなった瞬間から丁寧な言葉で説明を始めたわけだ。こちらに不利益にならない部分では、彼はしっかりと文字数を使って謝罪をしてくれたのだ。

友人の次の用事の時間になったので、僕はおいとますることにした。奥さんがタクシーを呼んでくれると言ったが、そこまでさせるのも申し訳ない。僕はおかまいなくと告げ、彼らの家を後にした。

とはいえ足はまだ痛む。今夜はこの町に滞在する予定なのだが、駅近くのホテル街まで行くのにタクシーを呼ぶべきか……思案しながらポケットに手を突っ込むと、さっきの運転手の名刺があった。カモにされた悔しさがよみがえり、僕はその名刺をグシャグシャに丸めた。

そのまま投げ捨てたい気分だったが、見ると道の端にゴミ箱が設置してあった。ポイ捨ては流石によくない、あそこに捨てるか。

そう思って近づき、ゴミ箱のフタを押しあけようとしたが、鍵がかかったように動かない。おかしいなとフタの脇を見ると、アプリのコードの読み取り機が据え付けてあった。

僕は大きくひとつため息をつき、ぐしゃぐしゃに丸めた名刺をポケットに戻した。この町で一夜を過ごすとなると、まだまだトラップは多そうだ。これ以上この町に不必要な課金をされたくないのだが……。重い足と気持ちを引きずって、僕は駅に向かった。

 

さて……宿を探そう。

 

(了)

ダイナー (小説 3/3)

彼女のパンケーキはまだ来ない。僕は顔を上げ、彼女の顔を見た。僕の前の、絶妙に焦げ目のついたソーセージを見ていた彼女は、僕の視線に気づいた。

彼女はちょっと呆れたように笑って「どうぞ。先に食べなよ」と言った。僕が口をつける許可を求めたと思ったようだ。それには応えず、僕は彼女の目を見続けた。彼女は違う空気に気づいた。

「なに?」
「僕は今、幸せだと思ってる」
「急にどしたのよ」
「君と、この店と、この朝食」
「……食べれば、はやく」
「これって最高の幸せだと思ったんだ」
「……うん」
「だから、今日で終わりなんてことには……したくない」

ソーセージの香ばしい匂いがしている。この香りに苦い思い出が加わらないといいのだけれど。

彼女は何も言わない。彼女のパンケーキが運ばれて来た。バターとシロップの香りが、ソーセージの匂いを上書きした。

三枚重ねのパンケーキを前にして、彼女は大げさなリアクションはとらず、ただ手を伸ばしてメイプルシロップの瓶をとった。

そのままドバドバと、パンケーキが浸るくらいにシロップを注ぐ、と思ったが、意外にもチョロチョロと細い線で二度ほど円を描いただけで瓶をおいた。

そしてテーブルに沿え付けてあった皿に、一枚目のパンケーキを移し、僕に渡した。

彼女の意外な行動に面食らっている僕に、彼女は「おいしいよ」と言って、再びメイプルシロップを取って、自分の皿にめいっぱい注いだ。

そして手を合わせて、僕の方をみた。僕も手を合わせて、一緒に言った。

「いただきます」

何度も来ているダイナーだけど、パンケーキは初めて食べる。思ったよりふわふわでも甘くもなくて、意外と硬派な味がした。

「おいしいでしょ?」

彼女は笑って言った。僕はただうなずいて、コーヒーを口に運んだ。酸味よりも少しだけ苦味が勝った味が、硬派なパンケーキとよく合った。

彼女はゆっくりとしたペースでパンケーキを食べ続ける。その間にシロップがパンケーキにどんどん染みていく。彼女は満足そうに、色の変わったパンケーキを口に運ぶ。

僕も自分の卵とソーセージを彼女に取り分けようとした。しかし彼女は「私はいらない」といった。小さな拒絶が、僕の心に少し引っかかった。

彼女の差し出したパンケーキに意表を突かれてから、二人の皿が平らになるまでの間、僕はさっきまでの重苦しさを忘れることができた。彼女も心なしか表情がやわらかくなった気がするが、それは純粋においしい食事のおかげだろうか。

さっきの小さな拒絶がまだ胸に引っかかっていた。彼女が時計を見て言った。

「そろそろ行かなきゃ」

その前にトイレ、と言って彼女が立ち上がり、僕も立ち上がってレジへと向かった。最後になるかもしれない食事はあっけなく終わりを迎えた。彼女が僕の彼女であるのも、残り数分かもしれない。

支払いを済ませて店のドアの外で待っていると、僕の食べたメニューと同じ皿をもった店員女性とすれ違いながら、彼女が出てきた。

「卵、おいしそうだったね」

彼女はそう言って、僕の目を見た。

「興味なかったんじゃないの?」
「そんなことないよ」
「いらないって言ってたから」

少し拗ねたような言い方が見苦しいことには自分で気づいていたが、やはり自分でそれを制御できるほど、大人にはなれていなかった。また沈黙が訪れて、そのままこの関係は終わり。

それを一瞬で想像したが、彼女は沈黙はしなかった。

「だって一口もらっちゃったら、パンケーキの余韻がなくなっちゃうから」

彼女は歩き出した。やはり僕は最後まで、彼女のリズムに合わなかったのだろう。

悪い結果をなんとか受け止めようと僕の脳がいろいろな言い訳を考え出した時、彼女が言った。

「今度は、一口ちょうだいね」

意表を突かれて、僕は立ち止まった。今の言葉……また一緒にここに来れるのかもしれない。少なくとも、もう一度は。

振り返らずに歩いていく彼女を、僕は走って追いかけた、

(終)

 

 

ダイナー (小説 2/3)

最初にパーティーに行こうと誘ったのは僕の方だった。古い友人に「DJをやるので来ないか」と声をかけられたからだ。

 

僕としては、彼女になってくれたばかりの彼女と「カップルでパーティーに行く」という浮かれたイベントをしてみたかったのだと、後から考えれば思う。DJが曲をかけているようなパーティーになんて興味もないのに、行くことにしたのだから。

 

クラブよりも、バンドが演奏するライブハウスの方が、まだ身の処し方には困らない。バンドの方を見て、演奏を聴いていればいいのだから。しかしクラブではどうしていいのかわからない。DJの方を見て音楽を聴くというのもどうやら違うらしい。そういう意味でも、誰か相手が欲しかった。一緒に行って、一緒に帰ってこられる相手が。

 

結局叶ったのは前者だけで、僕は一人で帰ってくることになったわけだが。

 

コーヒーのマグを口に運んで傾けてから、もう中身がないことに気づいた。彼女が一口かそこらしか飲まないうちに、僕はもう一杯目を飲み終えてしまった。考え事をしていると飲み物をついつい口に運んでしまう。

 

朝のダイナーは忙しい。せっせと料理を運んでいる接客の女性をいちいち呼び止めるのも気が引ける。もうそろそろ食事が出てくるころだろう。僕はマグをテーブルに置いて、だまって水の入ったコップに手を伸ばした。彼女がちらっとこっちを見た。また「そういうところだ」と言われている気がした。

 

あのパーティーの日も、僕は最初の一杯を早々に飲み尽くしてしまっていた。DJの友人に挨拶したあとは早速手持ち無沙汰になり、こういう場所で彼女という存在とどう過ごしたものかもわからず、なんとなく端っこのテーブルに二人で座って、どうしようかとあれこれ考えているうちにドリンクがなくなっていた。

 

大音量でかかるハウスミュージックの中、僕は彼女に大きな声で「もう一杯買ってくる」と告げた。言葉が届いているのかはわからなかったが、彼女はなんとなくうなずいた。彼女のドリンクはまだ減っていなかったから、余計なことは聞かずに席を立った。カウンターには列ができていて、結局二杯目を手にするのに二十分ほどの時間を要し、戻ってみると彼女はまだそこにいたが、僕が座っていた席には別の男が座っていた。

 

このダイナーでかかる音楽はいつも心地いい。あのパーティーではずっと場違いな感じがしていた。あの場でかかる音楽に、ずっとそう言われている気がしていた。

 

激しい四つ打ちにまくし立てられるのは好きではなくて、でもそれを求める人が集まる場所なのだから、やはり僕の方が去るべきだったんだろう。会話を遮らない程度の音量で、でも小さすぎもしないアメリカンロックが、ここでは流れている。

 

乾いたギターと太い男の声なのに、なぜ爽やかに感じるのだろう。朝っぽい曲かと言われるとそうではないのだが、朝に合わないわけではない。コーヒーと、ダイナーの景色には、間違いなく合う。四つ打ちのハウスミュージックも、パーティーの景色とはしっくり合っていたのだろう。ただ僕が合わなかっただけだ。

 

あの男はパーティーの雰囲気に合致していた。スーツを着ていたにも関わらずだ。ブルーがかったぴったりしたスーツに、頭頂にパーマのかかったツーブロックの短髪。サンバーストのギターのような茶色のグラデーションの革靴。

 

暗い室内だったのにそういうスタイルが僕の頭に残っているのは、彼に対する反感からだろう。丸いテーブルを挟んで彼女のほうに身を乗り出しながら喋るあいつに、彼女は体を引いているかと思いきや、ふつうに座って話を聞いていた。笑いながら。

 

僕は調子のいい男が嫌いだ。演出過剰な男が。それが嫉妬からだということ、自分がそうはできないからだということはわかっている。わかっているのと、その感情を抑えられるのとは、別の話だ。

 

大げさな身振りと手振りで、遠目にもあいつが会話の主導権を握っているのがわかった。彼女に体を近づけたり離したり、顔を近づけたり離したり。

 

その時僕が割って入れば、事態はまだよかったのかもしれない。僕はそうできなかった。できなかったという言っても、単に僕の意気地がなかっただけなのだろうが。あの男を制して、しっかりと自分の元に彼女を囲い、そのまま僕も大げさな身振り手振りで、適当な話を大声でして彼女を笑わせるべきだったのだろう。

 

しかし僕は、彼が去るまで待ってしまった。今度はグラスがすぐに空にならないように気をつけながら。ちびちびと口をつけながら、あの男が彼女の前から一瞬でも去るタイミングを待った。

 

男のグラスが空になり、男は彼女に何を飲むか聞いた。彼女のグラスも残りわずかになっていた。二つのグラスを持って彼女の前から男が離れたタイミングで、僕は彼女に近づき、帰ろう、と言った。

 

「え、まだ」という彼女の話も聞かず、「僕はもう帰るよ」と告げた。そうすれば立ち上がって後をついてくるだろうと思っていた。

しかし彼女はそうはしなかった。「それなら、じゃあね」と小さく僕に告げて、それ以上目を合わせようとはしなかった。

引くに引けなくなって、僕はその場を離れた。二つのドリンクを手に持ったあの男とすれ違いながら。

 

ギィィと椅子が回転する音がした。見るとカウンターから男が一人立ち上がって、僕らの脇を通ってトイレに行った。天パー気味の長髪を雑に後ろにまとめて、ざっくりとしたサイズのパーカーとジーンズに無精髭。ピッタリしたスーツの男は、こういうダイナーには来ない。ケチャップとマスタードがまるで似合わないあいつのような男は。

 

素焼きのカップでコーヒーを出すような、トーストにアボカドを乗せてくるような、ああいう男はそういうカフェに行く。パンケーキを頼んだ彼女は、そっちの方が好きなのかも知れないが。

 

こういうことをうじうじと考えて深みにはまってくると、何かに逃げたくなる。考えからも、目の前にいる彼女からも逃げたくなってくる。食べるという行為は救いだ。少なくとも食べている間は、考えることを脇に置いておける。自分の中の動物の部分に、自分を預けることができる。その度合いはコンディションによって変わるけれど。

 

この気持ちを汲んでくれたかのように、キッチンの方を向いていた店員女性がこちらを振り向いた。左手の皿には湯気の立つ卵とソーセージが、右手の皿にはしっかりと焦げ目のついた厚切りのトーストが乗っている。

 

この瞬間はライブが始まる直前のようなものだ。僕が思うに音楽のライブというのは、始まる瞬間が最も高揚する。開始の時を待って待って、もうすぐ来るぞ来るぞ……これから確実に事が起こる、その場所に自分がきているのだという確認と安心とアンビリーバブル……そしてアーティストが舞台袖から現れる! 手を振って楽器を持ち……始まる……始まる……始まる!! ……そんな爆発力が、あの卵とソーセージにも宿っている。

 

女性が僕たちのテーブルにそれを運んできた時、彼女の顔も少し柔らかくなった。僕の前に置かれた皿達は、僕の視点からは完璧なレイアウトだった。湯気を放つ卵と、油が光沢をつくるソーセージ、そしてちょうどいい具合に焦げたトースト。

 

その視界に空のマグも入って、あ、と店員女性にコーヒーを頼もうとしたが、彼女は皿を置くなり踵を返してカウンターへ戻ってしまった。

 

一瞬冷めさせられた僕の心は、次の瞬間すぐにまた上方修正された。彼女は例のケチャップとマスタードの容器を1セット持って引き返して来た。僕にスマイルをサービスしながら、ケチャップとマスタードをテーブルに置くと、空のマグを手にする僕に「皆まで言うな」という貫禄でうなずいて、再びターンしてコーヒーのカラフェを取ってきた。

 

これだけの出来事で僕の気分はぐっと底上げされた。いくら重い悩みのように思っても、結局我ながら単純なものだなと思わされる。マグにコーヒーが満たされていくと同時に僕の心も満たされていく。目の前にあるのは、非の打ち所のない、完璧な朝食だ。

 

そして、目の前にいる人も、完璧な彼女のはずだ。彼女は僕にとって最も魅力的な女性だ。この完璧な朝食と同じ視界に彼女が入ることは、この上ない幸せのはずなのに、彼女から目を逸らしたくなってしまうなんて、今の状況はなんてもったいないんだろう。

 

(続)

ダイナー (小説 1/3)

テーブルでコーヒーを待っていると、彼女が突然切り出した。
「どんな風に見えるんだろうね、私たちって」
僕はすぐには返答しなかった。まだ完全には頭が起きていないのと、彼女の質問に実際に困惑したのと両方だった。ほとんど部屋着に近いラフな姿で、僕と彼女は近所のダイナーに朝食に訪れていた。

すでに注文は済ませたというのに、彼女は再びラミネート加工されたメニューを手にとって眺め始めた。朝食メニューと飲み物のメニューの二枚がリングで綴じられている。

僕としては当然「カップルに見える」という答えが浮かんではいるのだが、彼女が求めているのはその付帯情報だということもわかっている。つまり、「どんなカップルに見えるのか」ということだ。

彼女はメニューを見てはいるが、読んではいない。頭の中で今、何を考えているのかはわからない。ただ、何かを決めようとはしているのだと思う。それはおそらく、今日のこの朝食を、僕と食べる最後の食事にするか否か、ということだろう。

友達でいた期間が長すぎたのかもしれない。僕がもっと早くにアタックしていれば、あるいはこんな状況にはならなかったのかもしれない。どちらにしても僕はまだ次に言うべきセリフを拾ってこれない。脳がサーチを拒否している。早くコーヒーが来て欲しい。脳を動かすきっかけとなる一口が。

彼女はメニューを戻して、遠くカウンターを見ている。ケチャップとマスタードの、先の尖った容器を見つめている。カウンターの端にまとめて赤と黄の容器が置かれていて、彼女はぼんやりとそのあたりに視線を送っている。

彼女の気が乗らない理由はわかっている。その原因となっている男のうち一人は僕で、もう一人は僕ではない。先日彼女と行ったパーティーで、彼女に声をかけてきた羽振りのよさそうなあの男。今彼女が僕と天秤にかけているあの男だ。

大きめの白いマグで、若い女性がコーヒーを運んできた。たっぷりと注がれて波打っている液体には安心感がある。マグを手に取ってすぐに口に運ぼうとした僕を、ミルクのポットを手に取った彼女の視線が突き刺した。牽制された僕は、一旦マグを口から離してテーブルに置く。そんな僕に彼女はまたつまらなそうな顔をした。

こういう風に合わせたり、押し切られたりしてしまう僕を、彼女が気に入らないというのもわかっている。押しの弱さ。それが、入学した時から気になっていた彼女に声をかけるまでに、四年に近い歳月を費やさせた。いざ彼女に思いを告げて、一応のオーケーをもらった時には、もうあと一ヶ月で卒業。ひとつの決断を迫られる時期が一瞬で来てしまったというわけだ。

ベーコンの香ばしく焼ける香りが鼻をくすぐる。苦境に立たされている時、目に入るものが見えなくなったり、周囲の音が聞こえなくなったりするが、不思議と鼻はそんなことはない。どんなに心ここにあらずでも、異臭がしたら鼻をつまむし、いい香りがしたら少し気分が上がる。

僕は卵とソーセージ、それにベーコンとトーストのセットを頼み、彼女は三枚重ねのパンケーキをオーダーした。今それらのメニューが、カウンター越しに見えるキッチンで、半袖のTシャツにエプロンをした女性の手で調理されている。金髪を後ろで束ねた、がっしりとした体つきの四十代くらいの女性がここのシェフ兼オーナーだ。

部屋に携帯電話を置いてきてしまって、僕の前で頬杖をついて外の通りを眺めている彼女の鼻にも、ベーコンの匂いは届いているだろうに。つまらなそうな表情はまったく変わらない。せめて携帯があれば間が持つのに、と僕の方が思ってしまう。

間が持たないのは今に始まった話ではなくて、最初のデートの日の午後には僕はもう間が持たなくなっていた。元々弁の立つ方でもなければ、彼女といる緊張も相俟って、言葉が出てこなくなっていた。

初めは彼女も僕に対して優しさを見せていたし、夜ともなれば会話なしでコミュニケーションを取れる手段もあったので、それほど間の持たなさは重要ではなかった。

何度も時を過ごした今となっては緊張こそしなくなっていたが、元来の口下手さが、彼女にしてみれば余計に目立つようになってきたのだろう。別の男という比較対象ができてしまえばなおさらだ。「どっちの男がより私を楽しませてくれるか」こんな風に彼女が考えていたらもう勝ち目はない。

コーヒーを持って来てくれた女性が、ナイフとフォーク、それに彼女のパンケーキ用のメイプルシロップを持ってきた。彼女はすぐにメイプルシロップに手を伸ばし、コーヒーの中にドボボっと注いだ。

これから来るパンケーキにも彼女はきっとたっぷりメイプルをかける。それなのにコーヒーにそんなに入れたら、メイプルの味ばかりになってしまう。でもこのくだりは前に一度やっている。「メイプルシロップが美味しいんだから、何にだってかければかけるほど美味しくなるに決まってる」それが彼女の理屈だった。

この店に彼女と来るのも二度目で、最初の時は好きな卵の焼き方について話したり(彼女はゆるめのスクランブルエッグ、僕はしっかり両面焼いたフライドエッグ)、すごい量のベーコンをオーダーしていた客に運ばれていく皿を盗み見て、二人で声を出さずに笑ったりした。

みんながめいめいに、自分好みの朝食を求めにこのダイナーに来る。ランチやディナーほど料理は特別ではないかもしれないけれど、朝という時間は、昼や夜より特別なものに思える。

家以外の場所で朝を迎えるのは、昼や夜に比べて特別だ。僕はダイナーで食べる朝食が好きだし、朝食を食べている人々と同じ空間で過ごすのも好きだ。彼女の不機嫌さもいいスパイス……となればいいのだが、僕にそこまでの余裕はない。

彼女は昼から予定があるから、朝食を食べたら帰ると昨夜言っていた。それを僕に告げたタイミングがセックスの前か後かは、それなりに重要な意味を持つと思うが、残念ながらセックスの後のことだった。「予定」についてもはっきりとは言わない。友達と会うから、と言っただけだった。

引き止めるべきだろうか。「いいから今日一日僕と一緒にいてくれ」と。他の人のことなんていいから僕のことだけ考えてくれと。

そんなマンガみたいなセリフ、とても彼女が好むとは思えないけど、でもこのままでは僕から気持ちが離れていく一方だろう。

そうやってなんとなく疎遠になって、卒業の日が来て、社会人生活が始まって、すれ違いという段階にもいたらないまま、関係がフェードアウトしていく。

それでいいのかもしれない。僕にとっては高嶺の花だったのかもしれない。こうして束の間でも彼氏彼女の関係でいられたことを、幸運に思うべきなのかも知れない。彼女は僕と違って引くてあまたで、こうして僕のところに来てくれたのだって、きっとたまたま彼氏を切らしていたからで、僕よりいい相手がいれば乗り換えたいのが本音なのかもしれない。

それでも。乗り換えようとしている先があの男だというのが腑に落ちない。あんな外面だけの男、あいつ自体も許せなければ、それについていこうとしている彼女にすら腹が立ってくる。

(続)